長崎市で本格的な東洋医学の鍼灸治療を受けられる鍼灸整骨院として定評があります。

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東洋医学コラム

94東洋医学の歴史②中国の歴代名医たち

皇甫謐:放蕩をくりかえしたが叔母のいさめで発奮して、広く書物の研究に没頭した。皇甫家は漢末期から続く由緒ある軍人の家系である。

伝説に息づく扁鵲、倉公、華陀

中国の医学史には、さまざまな名医が登場する。そのごく一部を紹介しよう。前漢(紀元前202~後8年)の歴史家、司馬遷が著した中国で最初の歴史書である『史記』には、扁鵲と倉公という2人の名医の伝記がある。扁鵲(本名:秦越人)は、中国伝統医学の祖師とされる。春秋・戦国時代(紀元前770~前221年)に活躍し、脈診にすぐれ、とくに鍼治療にたけていたといわれる。倉公(本名:淳宇意)は、秦(?~前206年)から前漢に活躍した名医で、鍼のほか灸治療も行っている。後漢(25~220年)の伝説的な名医であり、『三国志』にも登場する華陀は全身麻酔を行ったと伝えられる。『後漢書』によると、麻沸散という薬を酒とともに病人に飲ませ、眠ったところで開腹し、胃腸の患部を摘出した。傷回は縫い合わせて神膏という膏薬をつけておくと1か月で完治したという。5種類の動物のポーズをもとにした五禽戯(導引)をあみだし、太極拳や気功のもととなった。屠蘇を考案したともいわれる。

張仲景、皇甫認を経て李時珍へ

張仲景は、中国医学の医聖とされる。後漢の都洛陽にいたときに、疫病(傷寒)で大勢の人が亡くなった。これを嘆き、『傷寒雑病論』をまとめたとされる。この本が後に『傷寒論』『金巨要略』に分けられたといわれる。望診にすぐれ、一目見た相手の死期まで予見したという。西晋(265~316年)の皇甫謐は、医師というよりも、学者として知られる。42歳のときに脳卒中と考えられる病気にかかり半身不随となった。そのとき、服用した薬で症状が悪化したため、医学にめざめ、歴代の医書を研究した。『素問』『霊枢』『明堂経』に注釈を加えて、『黄帝三部鍼灸甲乙経』を編纂した。現存する最古の鍼灸医学書である。時代が進むにつれ、医学教育や古典をもとにした医学研究が盛んになった。12~14世紀の金と元の時代には中国医学は細分化されて、いっそう発展していく。そのひとつの李朱医学は、日本の医学に大きな影響を与えた。李時珍は明(1368~1644年)の時代の名医である。中国各地をめぐって薬草や民間療法の情報を集めた。その集大成が『本草綱目』で、収録されている薬品数は1903種におよぶ。古代からの伝統的な本草学と金・元の時代の漢方理論を統合させたもので、以後の東洋医学の湯液治療の基礎となった。

豆知識

扁鵲は鳥の姿で描かれることが多い。鵠はカササギを意味する。各地をめぐって医療を行つたとされ、医療を専門にした集団か学派のことではないかとも考えられている。

さくら鍼灸整骨院
長崎電気軌道(路面電車) 新大工駅より徒歩1分
〒850-0015 長崎県長崎市桜馬場1-8-3泉田ビル1F
☎0120-396-491 
(午前)8:00~11:30(午後)14:00~19:00
※土曜日は午前まで ※日曜日・祝日休診
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