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長崎市の整骨院のさくら鍼灸整骨院のブログ、コラムのページです。

95東洋医学の歴史③日本での東洋医学発展と衰退

方証相対:江戸時代中期の名医、吉益東洞が考案した。特定の症状に特定の処方を対応させる、わかりやすい治療システムである。

曲直瀬道三が完成させた日本式の東洋医学

日本では、朝鮮半島経由、あるいは、遣隋使や遣唐使によって7世紀ごろ中国から直接に、中国伝統医学が伝えられた。大宝律令(701年)では「医疾令」という医療制度が制定されたが、唐の制度にならったもので、医学教育の教科書も中国のものが使われた。平安時代には、中国の医学書を日本人が使いやすいように編纂するようになった。代表的なものは丹波康頼の『医心方』(984年)で日本最古の医書といわれる。隋、唐、朝鮮の医書類からの引用で構成されている。中国の医書をもとに、日本の医学も発展していったが、室町時代になると中国(明)にわたって医術を学ぶ医師があらわれた。戦国時代の曲直瀬道三は、各地の戦国大名、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康にも重んじられた名医である。明にわたった李朱医学を修めた田代三喜に師事した。その後、弁証論治による診断法と治療をまとめた『啓迪集』を著し、中国医学を日本向けに整え、江戸時代まで引き継がれた。江戸時代初期、ちょうど中国で『傷寒論』が再評価されるようになり、日本でも儒学者を中心に古典への傾倒がおこった。原典である『傷寒論』を重視する流派を古方派という。これに対して、宋・金・元の時代の医学を重視する流派を後世派という。

方証相対の誕生と日本の漢方医学の衰退

江戸時代中期には、中国伝来の東洋医学が日本式に大きく変化した。古方派の吉益東洞は、方証相対という理論を構築した。東洋医学の基礎となる陰陽説や五行説は客観的な判断には使えないと考え、症状ごとに決まった処方をあてはめて、理論より実践を重んじた。方証相対は日本中に広まり、江戸時代後期に曲直瀬流の医学はいったん衰退する。しかし、幕府につかえる医師たちは、宋時代の医学を基礎にした、考証学派を構築していく。幕末から明治にかけて活躍した浅田宗伯は、最後の漢方医学者といわれる。方証相対と考証学派の両方の医学を修め、幅広い視野をもち、幕府の要人や海外の公使の治療を行った。江戸中期の『解体新書』の出版以来、オランダ医学が日本の医学の主流になっていった。さらに、明治政府はドイツ医学を正式に採用したため、漢方医学は正統の医学としては扱われなくなった。

豆知識

方証相対は方証一致ともいわれる。証の名前が直接、処方の名前となるため、たとえば葛根湯証という言い方をする。これは中医学の証の名称とは異なる。

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